夢は美容師。
私の事は後で述べるとして、活版印刷の技術は、
以降改良を加えながらも5世紀にわたつて印刷の中心に居続けました。
これは技術の歴史の中では希有とも言える息の長さでは無かっただろうか…。
しかし、写真植字(写植)とDTP(デスクトップパブリッシング)がその命脈を途絶させた。
デジタル製版が可能になり、現代の日本では活版印刷は絶滅に近い。
とはいえ活版印刷のキリッとした印刷は捨てがたいものがある。
現代でも名刺、ハガキ程度の印刷をしている業者はいます。
私の名刺を活版印刷でつくりましたが、通常の7~8倍の料金が掛かりました。
しかしながら料金が高くてもあえて活版印刷にこだわりを持っている方もいて
ちょっとしたブームも起きているようです。
日本語は字種が多く活字の種類や大きさを全て揃えなければならない。
そのために、かなりの場所も必要でありました。
印刷にかかる前の全ての工程には必ず熟練者が必要不可欠でした。
(充満した空間)から写真植字、DTPの出現に(何もない空間)より
文字の作成が可能になったわけです。
ただ昭和43年ごろは、印刷といえば活版印刷が主流でした。
しかし手書きの謄写版印刷から、活字を用いたタイプ印刷は手軽でスピードも早く、
何よりも料金が安く、かなりのスピードで市場に受け入れられていきました。
兄貴達の会社もご多分に漏れず、物凄く忙しい日々を過ごしていました。
私事ですが、その頃一旦西宮に帰りました。
新幹線も無い時代でしたので大阪まで10時間ぐいかかったように記憶してます。
3月で会社を辞めたいと上司に相談し了解を貰いました。
チヨット寂しい気持ちも有りましたが、美容学校に行って美容師になるんだ、
とワクワクした感じでした。
3月始め送別会をして貰い20日頃小倉に帰ってきました。
「次の日相談がありますから」と、兄達に言って夜食事をし、酒を飲みながら、
私が「美容師になるので‥」と言うと、
「お前なにを寝ぼけた考えるのか!女がする仕事や!」
叔母さんからは、「女の髪は汚い」ともいわれました。(女性の方失礼)
最後には「今うちの会社は物凄く忙しいので4月から山田謄写堂で働け」との結論でした。
生まれてこれまで御世話になっているので自分の意思を通す事が出来ず、
半ば嫌々ながら印刷の営業としてのスタートを切った次第でした。
とはいえ余り面白くもなく、
4月の初めの休みに友人と三人で町をブラブラしてたら、
丁度三人組の学生の様な女の子と知り合いました。
この出会いが私の一生を決める事になるとは思いもよりませんでした。
4月7日、森林公園の桜は満開。
私は19才、彼女は18才の春でした。