謄写印刷は手書きですが、後にタイプライターの活字をロウ原紙に打ち付けるタイプ印刷となり、 軽印刷というジャンルが確立されました。
活版印刷は、活版(活字を組み合わせて作った版)で印刷することです。 1439年頃ヨーロッパで初めて活字による印刷を行った、活版印刷技術の発明者といわれているグーテンベルクの発明は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられています。
工程は、
文選…原稿を見て活字を用意し原稿に従ってならべる。 植字…印刷寸法に合わせ枠内に適切に配置し版全体が組み上がったら バラバラにならないように糸で全体を縛るその工程を結束と言う。 その後、誤植がないか確認するため、試し刷りを行い(校正刷り、ゲラ刷り)
校正の結果、間違いがなければ印刷機に取り付けて印刷する。 印刷後はインクを洗い落とし、活字ごとに版をバラバラにして片付け、活字を元の場所にもどす。 (活版)活版印刷は印刷の中心に居続けたが、膨大な数の活字と設備、 熟練者が必ず必要で印刷機にかけるまでの工程は、大変な事でした。 それがゆえにタイプ印刷は(軽印刷)は料金的、 早さ等で優っていたのでお客さんからの注文が増えていきました。 まだしばらく軽印刷と活版印刷の時代が続くのですが、新しい、 印刷をする前の前工程が大きく変化する時期がやってくるのです。
私個人は高校進学の時期になり、 兄貴達から「どうするんだと」聞かれ 「高校に行って、すぐ働きたい」と答えました。 理由は簡単でした。兄貴達に面倒を見てもらい、 せめて高校の間までは甘えても仕方がないと考えていました。
自分で働き美味しいものを好きなだけ食べたいと何時も思ってました。 間もなくして私は小倉商業高校に入学しました。 私達は団塊の世代で中学生の時は、一学年800人を超えていたと記憶してます。
山田謄写堂は叔父さんが引退し長男が引継ぎ、 ガリ版印刷からタイブ印刷えと移行して、 四男とコンビを組んで相当忙しい様で、有限会社として頑張っていました。
3月、就職先である西宮へ行く事になりました。 不安と自分で働き給料を貰う楽しみが交差して複雑な心境でした。 一生懸命働こうと張り切っていましたが、現実は甘くありませんでした。
その頃の給料は1万8000円だと記憶してます。 仕事が終わると、神戸三ノ宮か梅田に阪急電車で週3~4日出てました。 当然給料だけでは、一ヶ月ともちません。給料日の10日前頃にはお金がなくなり、 夜、兄貴に電話をしてはお金を送って貰うことが続きました。
昭和43年頃は景気も良く、印刷業界も大変忙しく 夜遅く日曜日も仕事をする日々が続いていたようです。 その年の正月に小倉に帰りました。
商売が上手く行ってるのがよくわかりました。 顔色は良いし、声も大きく、お酒も以前呑んでたものより高いお酒になっていました。 3月で会社を辞めて美容学校に行って美容師になると相談しましたが、 返ってきた言葉が…。