危機と機会、印刷業と個人的成長

Episode 6

オイルショックが起こり、狂乱物価、品不足、 田中内閣による政治不信など重なり、世の中が混乱していた時期でしたが、 印刷業界は活版印刷の衰退はあったものの、まだまだ大変忙しい毎日でした。 私も新聞社、大手コンピュータ会社、旅行会社、官庁を担当して良く働きました。 軽印刷の特長であります文字印刷に強く、料金が安いのが市場に受けて、景気の良い時でも有り、 いかに大量の書き原稿を早く捌(さば)けるかが受注の大きな条件のひとつでした。
その頃社内に5〜6人のタイピストを置き、 さらに結婚してタイピストを辞めた女性が自宅で仕事をしていましたので、 多い時で10人位を抱えていたと思います。 当時はBサイズ主流で、B5なら1日100ページから200ページの書き原稿を活字にすることができました。 活版印刷業者、同業者、オフセット印刷業者からも大量の仕事が舞い込んで忙しくても、 毎晩夜の町に出るのが楽しい時でした。
(有)山田謄写版堂は、(株)やまだとなり、香春口の狭い場所から、熊本町に三階建ての社屋を建て、 軽印刷からオフセット印刷の分野へと手を広げていきました。 自社で対応出来ない仕事は外注に委託するなどして、 北九州の中では売り上げ的にもある程度の規模になってきました。
29歳の時、お客さんに奨められて北九州青年会議に入会する事になりました。 この出来事も私の人生を大きく変えました。 北九州青年会議「JC」は40歳になると卒業という制度で、 同年代の仲間と地域の活性化をどうするか、 とか自己修練のための勉強会をしたり、地区大会、全国大会、世界大会の開催地を訪問して友情を深めたりしました。 それまでが井の中の蛙でしたので、物凄く新鮮でのめり込みました。
JCでは、色々な経験をさせていただきました。 「わっしょい百万夏まつり」の前身であります「まつり北九州」の実行委員長、 いとうづ遊園の象二頭を姉妹JCのスリランカから送られた事、 それに対して翌年世界大会に合わせて、スリランカに御礼に五人のメンバーと行き、 現地のテレビに取材を受けテレビ出演をした事、 新さくら丸を貸し切り、JCメンバー、家族、地元の経済人を講師に招いた洋上スクールの実行委員長の経験など、 色々な思い出があります。
委員会が終わると、夜の町に繰り出し、2~3件ハシゴして夜遅く帰る毎日でした。 その頃は彼女もいましたので家庭の事は省みず、休みの日はJC活動やゴルフに明け暮れる毎日でした。 ある日ゴルフから帰ると家の中はもぬけの殻、女房と子供三人は水巻の長男の家に行ってました。 別居生活の始まり、家庭は崩壊寸前でした。
仕事の方は何時もバタバタしてたので、忙しく上手く行っていると思っていました。 私はJCに熱中していた分、兄弟のコミニケーションが疎かになっていたのかもしれません。 私は気づかなかったのですが、長男は月末に資金繰りで頭を抱える時が有った様でした。 37歳の2月、突然社長室に呼ばれ、 「あとはお前がこの会社を引き継いでくれ」と云われ、唖然としました。 断りましたが、「逃げる訳にいかない」とも考えてはいましたが、 家族の事、会社の事等々、目の前が真っ暗になりました。
厳しい道の始まりです。

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