バブルの熱と、静寂の病室で

Episode 50

昭和60年代の頃景気は、右肩上がりで会社案内のパンフをページを増やして経費を賭けて作成してました。 会社案内の他にリクルートの為のパンフも作るなど、好景気に湧いていました。 株も三万円代後半迄上がり、株をしてないと馬鹿みたいな言われ方をされたのを覚えてます。 昭和60年8月13日に日航ジャンボ機123便が墜落、乗客乗員520人死亡、世界最大の航空機事故がありました。
私の病状は改善するどころか、胆石で胆嚢腫れて、胆嚢炎を起こしかけていました。 内科の診察と外科の診察も受ける毎日でした。週に一回ミーティングのため外出し病院に帰るとベットに倒れる様にして、寝ていた事を記憶してます。 一番困ったことは、病院食です。食べられず食堂て食べたり、女房に作って持ってこらせてました。 一回目の入院の時は、お客さん、仕入先、友達、JCと沢山の見舞の人達が来てくれました。個室の室には見舞のお花で埋めつくされ花の香りが入り混じって、強い臭いがしてました。 見舞客が沢山来ますと、対応するだけで物凄くつかれました。病院が見舞を制限するのが経験してよくわかりました。 二回目の入院は、このまま病気も治らず、ここで終わるかも知れないと、頭の隅にあったので、特別室にはいりました。 風呂、トイレ付きで、朝には、新聞が部屋に届くし、新聞を見て、朝風呂に入り、朝食、眠たくなると寝ると言う、日々を過ごしていきました。 見舞客も少なく静かに過ごせましたし、入院にも慣れて、会社の事も、以前より気になら無くなり、快適に過ごしてました。 桜の咲く頃に入院して、気がつくと年末になってました。新しい年を迎えましたが病状は相変わらずで、肝臓の数値も少し下がったり、少し上がったりでした。 幸い日本の景気は良くて仕事は忙しく従業員は、よる遅く迄働いてました。
為替市場では、1ドル 150円を突破し円高が急速に進んだ新年でした。 NTT株が160万円の初値を付け、4月には国鉄民営化JR11社が発足しました。 絵画「ひまわり」が53億で安田火災が落札したニュースなどバブルの時代でした。 友人の会社からのciもミーティングを繰り返し開催して、会社の新しい、名前、ロゴ、企業理念も決定しパッケージからユニホーム、全ての印刷物への展開にもメドが付き、会社PRのビデオを作成で完了しました。 ビデオ作成のため宮崎に行ったり、編集のため福岡に何回も行き来してました。 車のスピードが怖くなったり、車のライトや街路道の灯りが迫ってくる恐怖で、自分の身体がどうなっているのか解らない時期でした。
4月まで、外室許可を貰って仕事をしてましたが、退院をして毎日病院に通い点滴と注射をして過ごして居ましたが、大きな仕事が終わると同時に、身体が鉛を付けた様に重く、顔色も茶黒く、身体はやたら痒くて、7月の初め三回目の入院となりました。 特別室は空いて無く、ナースステーションの近くの小さな個室でした。 毎日のと言ってもいいくらい、特に朝方隣の室から数人の泣き声が聞こえてきて目を覚ます日々が続きました。 テレビを見ていると、石原裕次郎が死去したニュースなどを見て、落ちこんでました。 とにかく眠たくて、眠たくてコンコンとねていました。 11月頃特別室に移り、二回目の入院の時の様に、ゆっくり過ごしてました。
ある日部長から、連絡があり〇〇銀行の次長から電話あり社長に明日でも銀行にくる様にのことでした。 〇〇銀行と言えば日本の中でも、トップで翌日〇〇銀行の次長を訪ねました。 そこで思わぬ、信じられない話がありました。

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病気と事業運営の並行調整

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