昭和40年代からの日本の景気は、日本製品の盛んな海外輸出によって主導されました。 終身雇用、年功序列といった安定的な労使関係を基調とした日本型の雇用慣行は、 「会社人間」「企業戦士」「猛烈社員」と形容される勤勉なサラリーマン層を生み出し、 高度経済成長を加速化させました。
国民総生産が世界第2位へと躍進し、階層間、地域間格差の縮小を背景に全国民の9割までが中流意識を持つに至り、 社会は「昭和元禄」のムードにあふれる時代でした。 しかし繁栄の一方で、学園紛争の激化やイタイイタイ病の公害病認定など高度成長のもたらした歪みが、 次第に表面化した時代でした。 この頃の印刷業界は、絶好調で印刷物の高級化が進みカラー印刷が増えていきました。 軽印刷部門も、ただ文字が読めたら良いから、体裁や綺麗な印刷へと変化して行った時代でした。 印刷料金も一年ごとに値上げして認められ、今では考えられない大変良き時代でした。
当社も景気の波に乗り、一生懸命昼間仕事し、夜は毎晩のごとく町に繰り出しては飲んでいました。 北九州市は、昭和38年に門司市、戸畑市八幡市、若松市、小倉市の5市が合併して北九州市が発足しました。 八幡製鉄所をはじめとする工業都市、日本三大新聞社、読売新聞、朝日新聞毎日新聞の西部本社が、 小倉に有り活気溢れる都市でありました。
昭和44年頃は学生運動がピークに達し、 東大紛争に警視庁機動隊が導入され封鎖を解除、浅間山山荘事件などが記憶にあります。 嬉しい出来事としてはアメリカのアポロ11号で、アームストロング船長が人類ではじめて月に到達し、第一歩を踏んだ。
昭和30年から国民生活は、右上がりで良くなって行き、昭和47年頃まで続いたのですが、 昭和48年第四次中東戦争が起こりopec(石油輸出国機構)加盟国は原油生産の削減、 原油価格の大幅引き上げなどの石油戦略を打ち出し、第一次オイルショックがおきました。 使用する石油のほとんど全てを輸入に依存してきた日本経済は、まともに直撃を受け電力、ガス、石油科学製品などの値上げを呼び、 トイレットペーパーや洗剤などの「買い急ぎ」「買いだめ」や売りて側、企業側の「売り惜しみ」「便乗値上げ」等が派生し 「狂乱物価」と形容される激しい物価上昇が起きました印刷業界もオイルショックの波をもろに受け、 印刷するかみの値段はうなぎ登りに上昇し続き、印刷紙を手に入れる事さえ難しい状況でした。
この頃、お客さんを接待する事より、紙屋さんを接待し、少しでも多く紙を仕入れる事に必死だった事をおもいだします。 ぼろ紙を高値で買った記憶もあります。 景気を謳歌してた、印刷業界にも不景気の波かじわじわと押し寄せてきました。
彼女と付き合って、三年が経ち、昭和45年大阪で開かれた万国博覧会に北九州空港からセスナ機でいきました。 その帰路に俺たち、結婚しようと話をしました。 彼女は物凄く感激したのを覚えています。
昭和46年双方の身内だけで八坂神社で結婚式をし、会社の近くの居酒屋の二階で飲めや歌えの大騒ぎで遅くまで騒ぎました。 新婚生活は、六畳一間、狭い台所で昼間でも太陽の陽が指さない、小さくて汚いアパートでした。 私の給料は飲み屋の付け払いで消えていき、女房の給料での生活で、夜は長男の家で飲み食いしての日々を過ごしました。
昭和47年には、長女か生まれ、それと同時に、南区の春ヶ丘に引越しをして、それから二年後の昭和49年に女の双子がうまれました。 オイルショックの時でわずかなボーナス全額で粉ミルクを大量に買いだめした記憶があります。 金脈問題で田中内閣は総辞職、ロッキード事件て田中前内閣が逮捕されたり、昭和50年前半は政治の混乱がありました。 仕事は新聞社、電力会社、コンピュータ会社官庁、等々かなり大きなお得意さんがいましたので良かったのですが、 私生活は25歳にして子供三人でストレスのたまる毎日でしたが、
突然私の前に、キラキラ輝いてる女性が現れました。